今年2月、日本とEU(欧州連合)のEPA(経済連携協定)が発効した。日本の主力産業である自動車分野では自動車部品の関税が即時撤廃され、サプライチェーンに「日本からの輸出」を取り込む検討ができるようになった。このように日本とEUの距離が近くなる一方で、日本企業が多く進出している英国はEU離脱問題で揺れている。日本とEUの関係、英国の離脱に対する考え方、EPAの活用などについて、ニッセイ基礎研究所研究理事の伊藤さゆりさんに聞いた。
伊藤 さゆり
ニッセイ基礎研究所 経済研究部 研究理事
EUは米国に次ぐ巨大経済圏英国は入り口として機能
―まず、EU(欧州連合)市場について伺います。世界経済に占めるEU市場は、どの程度の規模なのでしょうか。
伊藤 EUは英国を含め28カ国が加盟し構成されているため、GDP(国内総生産)比では米国に次ぐ2位です。今の時点では世界経済におけるウエートは中国よりも高いということになります。
―巨大な市場規模の割に、日本企業にとってEU市場は、米国や中国をはじめとするアジア諸国に比べると “遠い”印象を受けます。
伊藤 海外展開している日本企業の拠点は圧倒的に中国などアジア諸国に多く、次に米国(北米)です。拠点数はアジア5万2860、北米9417に対し、西欧は5833にとどまります。東欧・旧ソ連を含めても7446です(26ページ図2)。そのため“遠い”印象なのでしょう。欧州に展開している日系企業の拠点数は、ドイツが製造業を中心に最も多く1814、次が英国の986です。日本企業は英国を欧州へのゲートウェイ(玄関口)と位置付けて、国境を越えるようなサプライチェーンを築いた場合でも、EU域内であれば関税がかからず、煩雑な輸出入の手続きも不要という恩恵を享受してきました。
―ところが英国のEU離脱(ブレグジット)問題が浮上したことで、雲行きが怪しくなってきたというわけですね。金融業は比較的他国へ移りやすいと思いますが、製造業の工場移転は大変です。
伊藤 英国に進出している金融業は、EUの単一の免許制度を活用して事業を行っていました。英国が離脱する場合、「合意あり離脱」「合意なき離脱」のどちらであっても免許を手放すことになるため、従来のロンドン拠点を維持しつつ、EUのどこかに新たな拠点を置き免許を取得することになるでしょう。
製造業の判断は非常に難しいです。英国に残ると輸出時に関税がかかること、規制の乖離(かいり)が生じることを受け入れるのであれば、必ずしも移す必要はありません。国境を越えたサプライチェーンを築いている企業は、今後どのような関税体系、規制体系に変わるのかを見極めながら対応策を打ち出していくと思います。
独仏主導のEUから周辺国扱いされ英国の不満が高まる
―なぜ英国はEUから離脱するのでしょう。
伊藤 英国と欧州大陸の国々は(EC(欧州共同体)時代も含め)40年にわたって仕組みをつくり、信頼関係を築いてきました。英国にとってEUは輸出量の4〜5割を占める重要なマーケットです。そのため離脱によって関税などの障壁が設けられると、英国は大きな経済的なダメージを受けることになります。ダメージを被っても余りある果実を得られるのかどうか。そこが外から見ていて疑問に思うところなのですが、離脱を強く望んでいる人たちにとっては、「EUの一員としての英国」という位置付けに対して強い違和感を抱いているのです。
―違和感の高まりは近年のことなのでしょうか。
伊藤 EU発足当初からあったのですが、加盟国が増え、かつEUの政策がカバーする領域が広くなったことから、違和感が大きくなり、自分たちと欧州大陸の国々とは違うのだという意識が強くなっていきました。またEUの政策の中で、大国を自負する英国の意向が反映されない部分が増えていきました。従来からEUはドイツとフランスという大陸の2大国がけん引しており、英国は少し距離を置く態度を取ってきました。それは、通貨ユーロを導入せず、ポンドを使用しているところに象徴的に現れています。
―少し距離を置く態度を取ったことで英国に不利益が生じたのですか。
伊藤 EUの政策協議からあえて距離を置いたことから、英国は大国なのに周辺国扱いされるようになりました。特に国民投票前の2010年代前半は、リーマン・ショックがありユーロ危機があり、それらをどう解決するかという点にEUの資源が多く費やされる結果になり、英国の不満が高まりました。しかも、自分たちが意図しない方向へEUが進んでいくことを受け入れなければなりませんでした。違和感を抱きながらもEUに加盟したのは経済的利益があるからという割り切りがあったからなのに、ユーロ圏経済が停滞して、それも望み薄になった。そんな状況下で(16年6月23日に)国民投票が実施され、離脱が支持されたというわけです。
ばら色の未来を信じて離脱の本質的な議論をせず決定
―国民投票では、離脱賛成派と反対派の間で、どのようなキャンペーンが張られたのですか。
伊藤 当時の停滞する経済環境を背景に、離脱派は移民の脅威を強調するキャンペーンを行いました。有権者の強い不満はEUに対する不満に直結していたわけではなかったのですが、「不満を解決するためにEU離脱が必要なのです」という呼び掛けが響いたのだと思います。 当時のキャメロン首相は残留派でしたが、「EUを離脱すると大変なことになる」としか言わず、国民にEUの枠組みとはどういうもので、コストをかけつつもそれ以上の恩恵が得られているということを十分に伝えなかった。
―国民投票から5カ月後に、米国の大統領選でトランプ氏が選ばれました。どちらも世界にとって想定外な出来事でしたね。
伊藤 共通の背景があったと思います。米国では見捨てられた地域、見捨てられた人々がトランプ大統領の米国第一主義に強く共感を覚えたといわれていますが、同じような構図が英国のEU離脱問題にもありました。潜在的なEU懐疑主義者に加え、見捨てられた人たちが生活の改善を望んで票を投じたのでしょう。
―国民が離脱に賛成したのに離脱協議が難航していますね。
伊藤 離脱問題が膠着(こうちゃく)しているのは、離脱の是非を問う本質的な議論が展開されないまま国民投票が実施され、離脱が決まったことが根底にあるからです。
離脱派のキャンペーンでは「離脱することによってより有利な立場になれる」「EUとはFTA(自由貿易協定)を結び、今のような制約を受けずに経済を発展させ、世界のいろいろな国々と現在よりも緊密な関係を築くことができる」と、「いいとこ取り」ができると訴えました。しかし現実には「いいとこ取り」はEUのルールでは認められず、その他の国々との自由な通商交渉の権利を回復しようとすれば、EUとの関係を犠牲にしなければなりません。
―英国が離脱することで、EU側が受ける打撃は大きいのでしょうか。
伊藤 大きいともいえるし、そうでないともいえます。EUの結束を「グローバルなパワー」と位置付けるのなら、英国がいることが非常に大事。G7の一角を占める経済大国であり、国連の常任理事国であり、軍事力・諜報(ちょうほう)能力は欧州でもトップに位置付けられています。そういう国が中にいるか外にいるかで国際的なプレゼンス(影響力)が変わってくる。
しかしながら、どうしても英国を引き留めなければならないとEUが考えているかというと、実はそうではありません。優先すべきはこれまで長年続けてきたEUという枠組みを守ること。枠組みを危険にさらしたり壊したりしてまで英国を引き留めるつもりはないのです。
日本とEUの早期EPA締結はトランプ大統領の出現影響
―日本とEUは18年7月にEPA (経済連携協定)を締結し、19年2月1日に発効しました。どちらが積極的だったのですか。
伊藤 日本とEUのEPAに関してはタイミングが良かったといえます。日本側にはEPAを締結したいという熱意がありました。EU市場の自動車(乗用車)の関税は10%と高く設定されています。EUはこれを交渉材料としていろいろな国とEPAやFTAを結んでいます。日本の主力産業は自動車ですし、家電や産業用機械の関税も引き下げてほしいという強い思いがありました。
EU側から見ると、日本の関税の障壁は低いためそれほどの熱意はなく、むしろ米国とのTTIP(環大西洋貿易投資パートナーシップ)の協議に資源を割いていました。ところがTTIPは膠着状態に陥った上に米国第一主義のトランプ大統領が誕生したことで、いったん撤回しなければならなくなりました。
EUにとって米国第一主義は脅威でしたし、英国という大国がEU離脱を決めたことも脅威でした。EU圏内の国々でも英国ほど極端ではないのですが、EU懐疑主義を掲げる政治勢力が票を伸ばしていました。
そうした動きに対してEUとして何か成果を出さなければなりません。おかげで、日本とのEPAがEUとして優先度の高い課題になりました。
―日本もEUも、EPA締結を急いでいた印象があります。
伊藤 どちらも英国が離脱する前にEPAを発効させておきたかったのです。英国込みの28加盟国が参加する前提で交渉し妥結したからです。発効が離脱後になると協定を修正しなければなりません。
日本と英国の間では、離脱後に日英FTA協議をすることになるはずです。TPP参加という見方もありますが、既存のTPP11カ国の合意が必要なので簡単ではありません。
ここで注意すべきは「合意あり離脱」か「合意なき離脱」かということです。「合意あり離脱」では、離脱をした後に移行期間が設けられ、その間は「日EU・EPA」のような貿易協定が適用されます。「合意なき離脱」では移行期間がないため、一気に英国は「日EU・EPA」の枠外に放り出されてしまう。そのため英国は「合意なき離脱」の混乱を想定して対応を進めています。日本にもFTAを結びたいというアプローチがありますが、日本としては「合意ある離脱」をしてほしいという立場です。英国は「日EU・EPA」の内容をそのまま適用してほしいと言っていますが、EUという大きなマーケットだからこそ認めた条件を、英国にそのまま当てはめるわけにはいきません。他の国もそうでしょう。英国が考えているほど簡単ではないはずです。そうした中で、米国はEU離脱を大歓迎しています。バイラテラル(2国間)交渉が大好きな大統領がいますから。
―日本企業としては、EPAをどのように活用することができるのでしょうか。
伊藤 EPAが発効したことで、一部の関税が即座に引き下げられました。まずはそれが活用できます。象徴的な事例を挙げると、乗用車の10%の関税は発効から8年目(26年)に撤廃されますが、自動車部品の多くは即時に撤廃されました。今、企業は英国の離脱を想定してサプライチェーンの見直しをしているところですが、関税撤廃により日本からの供給を選択肢に入れる余地が生まれました。
また、欧州市場の人口は英国を含めて約5億人と巨大です。その市場へ向けて、日本の品質の良い農業製品や食品を輸出するということも考えられます。
一方でEUの産品も日本へ入ってきます。日本の工業製品に対する関税は低かったのですが、EPA発効により、比較的高い税率だった皮革製品は11年目(29年)に撤廃、繊維製品は即座に撤廃されました。また農産品や乳製品、ワインなども国内販売のチャンスが出てくると思います。
中小企業のFTA利用率は4割を超えるが課題も多い
―日本とEUのEPAは発効したばかりですが、このような協定は活発に利用されているものなのでしょうか。
伊藤 EPAのデータはまだないため、JETRO(日本貿易振興機構)のFTAの利用に関する調査を参考にすると、大企業の発効済みFTAの利用率は6割を超えており、利用検討中を含めると8割を超えています。それに対し、中小企業の利用率は4割超、利用検討中を含めると約7割となっています(図3)。利用上の問題点としては「原産地規則を満たすための事務的負担」「輸出のたびに証明書発給申請が必要であり手間」「品目ごとに原産地判定基準が異なり煩雑」などが挙がっています。人材に限りのある中小企業では手続きなどの負荷も高いでしょうが、うまく活用すればかなりのコスト削減になります。
EPAに話を戻すと、中小企業の利用率が低いという課題はEU側も認識しています。EU域内は中小零細規模の企業のウエートが高く、そういった企業がEPAやFTAを活用してくれなければ恩恵を実感できません。そこで中小企業に対して情報提供を積極的に行うことがアグリーメント(協定書)に入っています。そのような問題意識を持って結ばれた協定であることを経営者の方々は認識して、ぜひ活用していただきたい。また今後は活用事例の研究も進み、情報の質も高くなっていくでしょう。
日本企業にとっては米国や中国が重要なマーケットですが、米中間による緊張の高まりの終わりが見えない状況の中では、サプライチェーンや生産体制の見直し、分散の必要があります。EUは制度的な安定では一日の長があるので、リスク分散戦略にEUを活用することも検討していただきたいと思います。 (8月22日取材)
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