江戸との海上輸送から始まった
千葉県の中央西部、東京湾に臨む木更津市は、東京湾アクアラインの開通により、房総の玄関口として注目されている。しかし、木更津は、アクアライン開通よりはるか以前から、房総の経済、文化の中心地として重要な役割を担ってきた。
はじまりは1614(慶長19)年の大阪冬の陣までさかのぼる。幕府御用船の操船で幕府の勝利に貢献した木更津の水夫たちの功績を称え、幕府は徳川家康のお墨付きの下、江戸と木更津を結ぶ輸送権利や、荷揚げ場「木更津河岸」(東京都中央区にある日本橋のあたり)の独占的使用など、数々の特権を与えた。
これをきっかけに木更津は海上輸送の拠点として発展。多くの商人が行き交うとともに、歌川(安藤)広重や小林一茶ら、多くの文化人や旅人も木更津を訪れたことから、江戸の流行や文化をいち早く取り入れ、木更津は一層のにぎわいを見せた。明治に入ると東京との定期航路が結ばれ、1965(昭和40)年には、川崎・横浜までカーフェリーが就航した。
港とともにその歴史を歩んできた木更津。木更津商工会議所の鈴木克己会頭は「木更津は港まちのため、他所から来た人をおもてなしする気質、そして、江戸の気質かもしれないが、『粋』『いなせ』という言葉が示すような新しいものを受け入れる気質があります。新興のベッドタウンとは違う、歴史の積み重ねがあるのです」と木更津の歴史を誇らしく語った。
1997(平成9)年のアクアライン開通により、港の役割も変わったが、房総の玄関口としての役割は変わらず、房総を訪れる人を温かく迎え入れている。
〝東京〟から一番近い房総リゾート
アクアラインを使えば、木更津~川崎間はわずか約30分。東京からの日帰りも十分可能な房総のリゾート地の木更津には、全国的にも有名な潮干狩りスポットや海ほたるなどがあり、多くの人が訪れる。特に、近年開業した首都圏最大級を誇る三井アウトレットパークやイオンモールへの訪問客は合計で年間約2000万人を数える。
木更津商工会議所では、この2000万人という訪問客をまちなかへ誘客させるため、「木更津おもてなし宣言」事業に取り組んでいる。おもてなし宣言は「土日祝日もお店を開けます」「商品を磨きます」「お店を磨きます」「接客を磨きます」の4つの宣言からなっており、セミナーの開催や、一店逸品運動研究会を立ち上げるなど各店舗の誘客に向けた活動を支援している。
また、週末を木更津で楽しむためのお役立ち情報を提供する「週末木更津計画」事業も実施。飲食店、観光地、イベント情報などをガイドブックやインターネットで提供している。さらに、週末の夕方に発生するアクアラインの渋滞に目をつけた「ヨル得クーポン」は、土日祝日の17時以降に使えるクーポン券。クーポンを使ってお得にショッピングや食事を夜まですれば渋滞も解消され、スムーズに帰宅できるというサービスである。こうした取り組みもあり、まちなかでは来客数が増えた店も出てきている。木更津商工会議所の永野昭専務理事は「おもてなし宣言などをきちんと機能させ、一緒に取り組む店舗を増やしていきたい」と意気込みを示している。
訪日外国人旅行者を取り込む
観光振興で今期待されているのは、訪日外国人旅行者の取り込みである。昨年の訪日外国人旅行者は1900万人超と過去最高を記録。2020年には、東京オリンピック・パラリンピックも控えており、その勢いは今後も続く見込みだ。
木更津でも外国人旅行者の受け入れを積極的に行っている店がある。創業1897(明治30)年の老舗料亭「宝家」は、ムスリム(イスラム教徒)向けに、ハラール(イスラム教に従って処理された食材)に対応した和食を提供している。
宝家の女将である鈴木まり子さんは、「ハラール料理のモデルケースになってもらえないかと県から依頼があり、ハラールの研修会に板長と行ったのが始まりです」と語る。つい先日も、シンガポールとマレーシアの旅行者が成田から直接来店した。なぜこの店を知っているのか尋ねたところ、「テレビを見たから」との答えが返ってきた。実は、鈴木さんは海外のテレビ局の取材や、知事の海外視察に同行し、木更津をPRするなど、積極的な広報を行っており、こうした活動の成果が出つつある。
「2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、いろいろな活動を行っています。千葉県でも競技の実施が予定されています。地元の方、県外の方、そして海外の方に喜んでもらえるようなおもてなしをしたいと思っています」(鈴木さん)
日本の文化である芸者衆を守る
木更津の観光・文化で重要なのが木更津芸者衆である。房総の玄関口である木更津は歓楽街としても栄え、最盛期の1965(昭和40)年頃には200人を数えた芸者衆も、現在は9人となってしまったが、芸者衆の稽古場(見番)が千葉県内で唯一現存しており、日々稽古に励んでいる。
木更津ではお座敷だけではなく、かつては冠婚葬祭に芸者衆を呼ぶ習慣があったほど、生活に密着していた。こうした文化を残そうと有志が集まり、「木更津伝統伎芸を守る会(はなまちサポーターズ)」を2013(平成25)年に結成。現在は、鈴木会頭が会長に就任し、稽古場や道具の維持・修理などをサポートしている。
木更津市芸寮組合の新春日みき組合長は、「高額のため個人では難しい楽器の修理などを行うことができるようになり、大変感謝しています。皆さまからのご支援に私たちも応えたいと思います」と木更津花柳界の文化継承に向け、力強く語った。
こうした努力もあり、最近は外国人や女性の利用客も増えてきた。しかし、最大の課題は後継者不足。守る会の事務局長を務める木更津市観光協会の野口義信会長は、「若い人に来てもらうには、職場として安定していなければなりません。昼は観光大使のような活動をしてもらいながら、稽古も行い、夜は芸者として働くという方法を考えていますが、そのためには行政の協力も必要です」と語る。そして目標として「まずは30人を目指したいです」と力を込めた。
「無の状態からつくるのと、木更津のように9人の芸者衆と見番という財産があるのは違います。これからも芸者衆という日本文化を守っていきたいと思います」(鈴木会頭)
50年かかっても元に戻したい
鈴木会頭は、「個が輝き、地域が輝く」をスローガンに掲げ、さまざまな事業に取り組んでいるが、特に力を入れているのが「木更津50年計画推進協議会」だ。
地域の産業の大きな転換期は、1965(昭和40)年の八幡製鐵君津製鉄所の創業と鈴木会頭は指摘する。それから昨年でちょうど50年が経過した。
「高度経済成長期に郊外へ開発が進みました。振り返ると、まちなかは空洞化してしまいました。50年かかって失われてしまったのですから、50年かかっても構わないので元に戻したいです。一朝一夕にできることではありませんが、方向性を掲げ続けることが大切だと思っています」(鈴木会頭)
協議会の下には、「情報発信」「木更津らしさ」「創業支援」の3つのワーキング部会を設置。木更津の活性化に向けて議論を重ねている。
昨年10月には、創業支援ワーキング部会の意見を受け、「木更津市産業・創業支援センター(らづサポ)」が開設された。センターは、木更津市が設置し、木更津商工会議所が運営を受託している。商工業者だけでなく、農業、漁業など業種を問わず、売り上げ拡大、資金調達、創業など、さまざまな課題についての相談を受け付けている。
神谷善二センター長は、「地域を盛り上げるためには、地域の産業を盛り上げなければなりません。開業率を上げなければジリ貧になりますし、既存の企業もさらにレベルアップさせたいです」と意気込む。センターが開設してまだ間もないため、創業の事例などはないが、「今は裾野を広げている段階です。創業希望者のストックをいかに増やしていくかが大事です」と息の長い支援が必要と指摘している。
また、永野専務理事はセンター設置の意義をこう話す。「センターと商工会議所が連携することで、あらゆる相談に対応できる体制をつくることができ、ワンストップで対応できます」
港を活用したまちづくりを目指す
木更津市の人口は現在約13万人。人口が減少している自治体が多い中、商工会議所をはじめ地域が一丸となってまちの魅力を高めた結果、横ばいだった人口が増加傾向に転じ、平成17年からの10年間で1万人以上増加した。さらにまちの魅力を高めるため、生まれ育った木更津をどうしていきたいか。鈴木会頭は、「まちなかにもう一度目を向けるべきです」と語る。「新しいまちをつくるのはコストが掛かります。少子化の時代、今あるものに目を向けた方がよいのではないでしょうか」とこれ以上の安易な郊外開発に警鐘を鳴らす。
今、木更津では市庁舎の移転が予定されている。「市庁舎をまちなかにつくるのかどうかの議論を始めなければいけません。中心市街地の再開発に貢献できる市庁舎を建設する運動を言い出せるのは、商工会議所だけです」と意欲を見せる。
そして、まちづくりのテーマとして鈴木会頭は〝港〟を強調する。「昨年、木更津市との姉妹提携25周年を記念して、米カリフォルニア州オーシャンサイド市を訪問しました。太平洋と沈む夕日、海の絶対的な存在感に圧倒されました。木更津も東京湾があり、その向こうに富士山が見える風光明媚な景観があります。これらをどう生かしていくのか、内港を中心に、にぎわいづくりの拠点の整備は、まさに50年かけてでも取り組むべき課題だろうと考えます」と語る鈴木会頭はまだ見ぬ木更津の未来に思いをはせ、顔をほころばせた。
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