揺れ動く中世の日本で、南北朝の合体を調停したのが室町幕府三代将軍の足利義満である。義満は日本が中華文明圏に編入されることを望んだ。自らが日本国王となり、明の皇帝の臣下となって冊封体制に組み込まれた方が国も幕府も安泰だ、どの王朝も百代で終わるとする『礼記』に照らせば天皇家はいつまでも続かないと考えた▼
だが日本は、天命を失えば王朝が交代する易姓革命の中華文明とは違った。政治の実権は武家にあっても、将軍を任命する権威として天皇が在位した。神話と歴史を混ぜてはなるまいが、稀にみる永さで皇位が継承されてきた。世襲の宮家を立て、養子を取り、側室を置くなど工夫を重ね、同じ家系で幹と枝を巧みに組み合わせて幾度かのピンチも切り抜けてきた▼
革命政権の明治になると、皇位継承が政争の火種になるのを避けるため、皇室典範を制定して「一世一元」とし天皇は終身となった。誰かが別の天皇を担いでクーデターを起こす危険を排除した。同時に近代国家として制定した憲法で、初めて「万世一系」の天皇を統治者とした。旧公家や武家らを処遇する華族制度が天皇を支える機能をも果たした▼
主権が国民に移った戦後も天皇制は維持され、皇室典範も残った。だが皇統の安定のための手は打たれなかった。天皇家と一体の関係にあった五摂家を含め11宮家が臣籍降下し華族制度も解体された。そもそも明治の時代に法定した近代天皇制が、将来の皇位継承を困難にすると予想された懸念がいよいよ現実味を帯びてきたのを受け、政府は7月に皇室典範を改正した。具体策はこれからだが、国民統合の象徴である皇位をどう継承するか。国民の意思が反映されたものでなければなるまい。
(コラムニスト・宇津井輝史)