四国の終着駅
JR松山駅から特急列車「宇和海」に乗り、いくつものトンネルや切り通しを抜け、山間を縫うように1時間20分ほど走って到着する宇和島は、“四国の終着駅”といわれている。その由縁は、JR宇和島駅が予讃線(瀬戸内海と宇和海に沿って香川県の高松駅から愛媛県の松山駅を経て、同宇和島市の宇和島駅に至るJR四国の鉄道路線)の終点(終着駅)であること、また予土線(高知県高岡郡四万十町の若井駅から愛媛県宇和島市の北宇和島駅に至るJR四国の鉄道路線)の列車が宇和島駅まで乗り入れていることで、実際上の終点(終着駅)となっているからだという。
愛媛県は、その県域をかつての地方行政区分(伊予国)の名残から東予、中予、南予と三分されることが多い。このうち宇和島は南予(同県南部)に位置する人口7万5000人ほどのまち。西側は宇和海に面し、それ以外の三方は山で囲まれている。その山が海岸線付近まで迫っていることから平野部は狭い。リアス式海岸で、加えて離島もあるという地形から、漁港が多く存在し、その数は全国でも有数である。
「宇和島の歴史を語る上でよく登場する人物は、平安時代中期に宇和海の日振島を拠点として瀬戸内海全域に勢力を伸ばした藤原純友や、“城づくりの名人”といわれ、現在地に宇和島城を築城した藤堂高虎などですが、一番関係が深い人物は、1615年に入部した伊達秀宗公ですね。大坂の役での軍功によって宇和島藩10万石が与えられ、仙台から57騎の武者と1200人を超える人々を従えて来られました」と、宇和島商工会議所の廣瀨了会頭は話す。
「国指定重要文化財の豊臣秀吉画像や初代藩主秀宗公と父・伊達政宗公との間で交わされた書状、歴代藩主の甲冑など伊達家ゆかりの品は、宇和島市立伊達博物館に所蔵され、その一部が展示されています。幕末の松平慶永公、山内豊信公、島津斉彬公と共に四賢公の一人として数えられた八代藩主伊達宗城公の活躍を示す文化財も残っています。また宇和島城は、現存12天守の一つで国指定重要文化財です。大名庭園の『天赦園』も現存しており、国指定の名勝です」
海の恵みで輝く“まち”
「宇和島は、海を中心に発展してきました。その昔は海運業が盛んで、海の交通で栄えました。江戸時代にはイワシ網漁業が盛んになり、三大イワシ網漁場の一つといわれるほどでした。イワシ網漁業は明治、大正時代も続き、当時の宇和島は、漁港のある離島(島しょ部)や半島の方が、人口が多かったくらいです。その後、イワシ網漁業は衰退しましたが、幸いにも宇和海は、太平洋からミネラルなどの栄養分を豊富に含む黒潮が流れ込む海域でしたので、漁業がマダイやブリなどの養殖業に代わりました。現在、養殖マダイの生産量日本一の愛媛県において、その中核を担う存在となっています」と廣瀨会頭は説明する。
続けて「リアス式海岸による深い入り江があることで波も静かな宇和海は、真珠の養殖地としても恵まれた自然環境を有しています。真珠の養殖というと三重県が有名ですが、宇和島での真珠づくりも歴史は古く、明治40(1907)年までさかのぼり、100年以上の歴史があります。その生産額は最盛期と比べると5分の1ほどに減っていますが、それでも、昨年(2018年)度まで13年連続で愛媛県が日本一となっており、その多くが宇和島産真珠です。巻きや光沢の素晴らしさで、世界中から高い評価を受けています」と話す。
一方で、今後取り組むべき課題もあると廣瀨会頭は指摘する。
「生産額や生産量こそ日本一ですが、ブランド力が課題です。真珠に付加価値を付ける穴あけ作業などの2次加工の多くは関西圏などで行われており、その後の工程である穴があいた真珠に糸や鎖を通す作業などは、当市に戻され行われます。しかし、そこでできた商品の多くは、有名ブランドの商品として地域外で販売され、それが宇和島産であることは、一般に知られていないのが実状です。地元では、これは宇和島真珠の品質の高さを示すものとして理解していますが、やはり最終商品を宇和島ブランドで販売したいという思いが強くあります。既に取り組んではいますが、引き続き商品デザインも含め、ブランド力の一層の向上を図り、付加価値の高い商品づくりを行っていくことが、地域活性化のためにも重要だと思います」
太陽の恵みで輝く“まち”
愛媛県と言えば?と質問すると「みかん」と回答する人が多く見られるとおり、同県はみかんの産地である。その中において、宇和島市吉田町は「愛媛みかん発祥の地」として知られ、その栽培の歴史は200年を超える。日当たりの良い斜面で行われるみかん栽培は、明治時代から盛んになり、その後、昭和8(1933)年に吉田町に設立された農事試験場南予柑橘試験地(現・愛媛県みかん研究所)による試験研究と技術普及が、その栽培を支えた。このみかん研究所は、現在もさまざまな品種を生み出しており、みかん農家を支え続けている。 ことし3月22日、愛媛県が2016年度の同県産かんきつ類の収穫量を発表した。それによると、温州みかんと中晩かん類を合わせたかんきつ類の収穫量は21万4963tで、43年連続で日本一になったという。内訳を見ると、温州みかんの収穫量は12万7800tで、和歌山県の16万1100tに及ばず2位であったが、中晩かん類の収穫量は8万7163tと、2位和歌山県の4万8053tを押さえて1位となった。その結果、収穫量合計では、和歌山県の20万9183tを上回った。ちなみに中晩かん類とは、主に年明け頃から5月頃までに出回る、温州みかん以外のかんきつ類の総称で、「はっさく」や「あまなつ」などの従来品種に加え、品種改良によって生まれた「不知火」「清美」「せとか」「甘平」「紅まどんな」などが、その代表的な品種である。
こうしたかんきつ類を栽培しているみかん農家も、昨年7月の豪雨により大きな被害を受けた。特に前述の吉田町では、山の斜面が崩れ、みかんの木が流されるという土砂災害に見舞われた。その被害総額は、県全体で464億円ほどとなり、うち宇和島市は吉田町を中心にその45%強にあたる約210億円の被害額となった。ことし1月末までに、その災害査定が完了し、順次復旧が進む中、若手農家グループが産地復興に向けた会社を設立するなど、新たな取り組みも始まっている。
また、被害を受けたみかん農家の中には、これまで温州みかん頼みで、その収穫時期に収入が偏っていたところもあったが、(前述の)「みかん研究所」が開発した収穫時期が異なる新品種の栽培により、おおよそ1年間、満遍なく収穫でき、収入の平準化が図られつつある農家も出てきているという。こうしたことから、災害から免れたみかん(かんきつ類)の木による栽培・収穫で一日も早い復興が待たれる。
先人たちの財産を生かす“まち”
戸数40戸で人口160人余りの集落である同市遊子の水荷浦地区には、傾斜角度30度を超える急斜面に石垣を積み上げて造られた階段状の畑地“段畑”が残っている。
この段畑は江戸時代、遊子の住人たちが「山勝手次第開くべし」(伊達家文書)により開墾を始めたもの。その目的は、盛んであった漁業を支え、さらに食料の自給自足を図るためであり、実際イワシ網漁業が不漁だった時は開墾が進んだという。当時、この段畑で栽培されていたのは甘藷(琉球芋)であったが、明治時代には新品種の甘藷(カライモ)に変わった。このころから段畑に石垣が採用され、現存する段畑の原型となった。
また急斜面の段畑での作業は非常に重労働であったことから、戦後、重労働解放運動が展開された。その後、徐々に農道・索道などの条件整備が進み、スプリンクラーなどの近代設備も加わったことで、以前ほどの重労働ではなくなったようだ。また、栽培する作物も芋からかんきつ類に転換していった。これにより段畑は減少、昔の面影を完全な形で残しているのは、遊子の水荷浦地区のみとなり、平成19(2007)年7月、国の重要文化的景観に指定された。
現在、栽培されているのは、早掘り馬鈴薯(ジャガイモ)。このジャガイモは、太陽の光を受けた石垣が地中の根を温めてくれる影響で甘いと評判だ。4月の「ふる里だんだんまつり」で販売されるほか、焼酎に加工されている。8月には、この段畑を竹とロウソクでつくる行灯でライトアップし、年に一度、幻想的な景観を見ることができる夕涼み会が行われる。
夏に燃え盛る“まち”
廣瀨会頭は「宇和島は夏がおすすめです。毎年7月23、24日に行われ、300年以上続く伝統行事である和霊神社の『和霊大祭』と、同時期(同22~24日)に行われる『うわじま牛鬼まつり』で、宇和島の人は燃え盛ります。24日には、宇和島市営闘牛場で『宇和島闘牛大会・和霊大祭場所』も行われます」と力を込めてPRする。
「和霊大祭の一番の見せ場は、24日の夜に行われる“走り込み”です。“走り込み”とは、宇和海を巡る御座船に乗ったみこしが海上渡御から戻り、須賀川を遡上して、川の中に立てられた御神竹を中心に走り回り、その竹のてっぺんに結ばれている御幣を奪い合う神事です。たいまつなどの明かりで照らされる中、夜9時頃に最高潮を迎えるこの神事を一目見ようと大勢の見物客でにぎわいます」
「『うわじま牛鬼まつり』は、昭和25(1950)年から始まったものです。当初は『宇和島商工祭』と言われていましたが、平成8(1996)年、現在の名称に変更されました。3日間の開催のうち、初日は『うわじまガイヤカーニバル』が行われます。色とりどりの衣装を身にまとった若者などがまちなかを踊り歩きます。私の会社も参加しています。2日目は昼間、コンサートやミニライブ、演舞や宇和島おどり大会などが行われ、夜は、海上打ち上げ花火で歓声があがります。クライマックスの3日目は、『親牛鬼パレード』が行われます。顔が鬼で、胴体が牛である山車は全長5~6mほどあり、赤い布やシュロの毛に覆われています。大勢の担ぎ手で支えられた数体の牛鬼が、長い首を打ち振りながら、まちなかを練り歩く姿は迫力があります。このまつりには、当所も実行委員会事務局として参画し、職員一丸となって、その成功に尽力しています。ぜひ見に来てください」と話す廣瀨会頭の表情は笑顔であふれた。
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