山に囲まれるも、坂を生かす“二本松”
福島県二本松市は、同県の中央北部に位置するまち。県庁所在地で新幹線停車駅でもある福島市と郡山市の間にあり、市内中心部から車で国道4号線を移動すると、ともに30分ほどで到着する。同市は平成17(2005)年12月に、旧二本松市と周辺3町(安達町・岩代町・東和町)が対等合併し、現在の市域となった。人口は約5万6000人。このうち、旧二本松市域は3万3000人ほど。長らくこの人口を保ってきたが、近年は微減傾向にあるという。
同市西部の奥羽山系には安達太良山(1700m)がそびえ、その麓には爽やかな高原の温泉郷「岳(だけ)温泉」がある。空気と水がおいしい場所にあるこの温泉は、 日本温泉協会のアンケートで『自然環境日本一』に選ばれたほか、日本観光協会主催『第4回優秀観光地づくり賞』を受賞するなど評価が高い。その湯は全国の天然湧泉の中でも珍しい「酸性泉」。標高1500mの湯元から約8㎞の距離を40分ほどかけて温泉街まで引き湯していることで、湯が適度にもまれ、「美肌の湯」になったという。
歴史も古く、平安時代に編纂(へいさん)された歴史書『日本三代実録』の貞観5(863)年10月20日の条に「小結温泉に従五位を授ける」と、同『日本紀略』の寛平9(897)年9月7日の条に「小結温泉に正五位下を授ける」と、それぞれに記載の温泉が岳温泉だといわれている。また、江戸時代から明治時代にかけて山津波、戊辰戦争、大火などに見舞われるも、その都度復興を遂げてきた歴史も有する。
二本松市民の精神的支柱「二本松藩戒石銘」
「二本松は歴史ある城下町です」と話すのは、二本松商工会議所の山口純一会頭。
二本松市の歴史は南北朝時代、北朝側だった畠山高国が奥州探題として下向し土着した後、孫の満泰が三方を丘陵で囲まれた自然地形を巧みに活用して築城した堅固な霧ヶ城(二本松城)を本拠としたことから始まる。
畠山氏の支配はその後11代におよび、15世紀ころから地名をとって二本松氏と名乗るようになった。現在の同市域とその周辺(現・郡山市の一部など)を治めていたが、隣接する伊達氏や芦名氏などの影響を受けるようになると、天正13(1585)年、伊達氏との関係が悪化。小競り合いの中で生じた伊達政宗の父・輝宗の死をきっかけに、政宗から総攻撃を受けるも二本松城は落城しなかった。天正14(1586)年、二本松氏の家臣(の一部)が伊達氏に内応したことで、籠城が難しくなり、時の城主・国王丸(二本松義綱)が自ら城に火を放ち、芦名領に逃れたことで同氏の支配は終焉を迎えた。
以降、二本松周辺は伊達氏が治めるようになったが、豊臣秀吉による奥州仕置きで居城を岩出山へ移されると、その後は、蒲生氏、上杉氏、加藤氏が治めた。
江戸時代に入り、寛永20(1643)年に丹羽氏が二本松藩を立藩すると、二本松城の城郭の整備や城下町の建設など、大規模な開発を行った。市内中心部の枡()形の町割りは、その名残りだ。
戦国時代には落城しなかった二本松城も戊辰戦争で落城した。
「二本松藩は奥羽越列藩同盟の信義を重んじ、戊辰戦争に臨みました。この辺り一帯は戦場となり、多くの被害(犠牲)がもたらされました。特に『二本松少年隊』が戦場に投入され壮絶な戦いを繰り広げた悲話は、今なお語り継がれています。こうしたこともあり『城を枕に討ち死に』した唯一の藩とも言われています」
「旧二本松城の入り口にあたる場所の石碑『二本松藩戒石銘』は、丹羽氏が治めた二本松藩10万700石の大いなる遺産です。五代藩主(丹羽家七代)高寛公が家臣で儒学者の岩井田昨非(いわいださくひ)の献策によって藩士への戒めとして、長さ約8・5m、最大幅約5mの自然石(花こう岩)に、16字(4字4行)を刻ませ、寛延2(1749)年3月に完成させたものです。石碑には、次のように刻まれています」。
爾俸爾禄
民膏民脂
下民易虐
上天難欺
寛延己巳之年春三月
お前がお上から戴く俸禄(給料)は、民の汗と脂の結晶である。
下々の民は虐げ易(やす)いけれども、
神をあざむくことはできない
寛延二年三月
「二本松では、今でもこの精神が市民に受け継がれているのではないかと思います。それは『華美を好まない』『質素倹約』『実直な市民性』という生き方などに見られるからです。この戒石銘は、昭和10(1935)年12月、教育資料、行政の規範として高く評価され、国の史跡に指定されました。また、当所では平成25(2013)年3月12日に、東日本大震災からの復興を願い、当時の内閣総理大臣ほか全閣僚にこの戒石銘の拓本を贈りました」(山口会頭)
産業近代化の先駆けとなった「二本松製糸会社」
「明治時代初期、二本松に、当時、わが国最大の民間企業があったことをご存じですか」と山口会頭。それは明治6(1874)年に創業した「二本松製糸会社」を指す。同社は、二本松藩士・梅原直次郎の次男として生まれ、のちに同藩士・山田友松の養子となった山田脩とその実兄・梅原親固、佐野利八らによって、二本松城跡に建設された。戊辰戦争後、将来の夢を海運業に求めた山田が、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎に相談したところ、「君の故郷には“蚕糸”という天賦の業がある。この事業こそ君の為すべきもので天命ではないか」という進言がきっかけとなった。これにより郷里で蚕糸業の発展に尽力しようと考えた山田は、器械製糸技術こそ、当時の先進地イタリアを参考にしたものの、工場設備は全て国産、しかも日本人の手のみで設計し建設。ここで生産された製品は、全て米国へ輸出され、高品質の生糸は絶賛された。この成功は、国内各地の器械製糸工場の創設に強い影響を与え、わが国産業の近代化モデルとなった。
その後、明治18(1885)年に同社が解散すると、山田は同社の土地・建物の一切を買い受け、個人経営としてはわが国最初の民間機械製糸工場「双松館」が発足。この近代的製糸工場により地域産業の発展に尽くした山田は「製糸業の父」と呼ばれる。
豊富な地域資源で観光客増を目指す“二本松”
二本松には、歴史、自然、アクティブスポーツ、各種イベントなどが豊富にあり、いずれも魅力溢(あふ)れるものばかりだ。
歴史では、日本百名城の二本松城(前述)、自然では日本百名山の安達太良山(前述)、アクティブスポーツでは、ドリフトのメッカ「エビスサーキット」とボルダリング、スケートボード、スラックラインの各競技において国際大会の開催要件に準拠している「アクティブパーク」などがある。イベントも日本三大提灯祭りの一つである「二本松の提灯祭り」や日本最大級の菊祭典「二本松の菊人形」がある。
「二本松の提灯祭り」は、二本松藩の初代藩主・丹羽光重公が「よい政治を行うためには、領民にまず、敬神の意を昂揚(こうよう)させること」と考え、二本松神社を領民なら誰でも自由に参拝できるようにしたことから始まった祭り。一番の見どころは、初日の宵祭りで、全ての町内から鈴なりの提灯をつけた7台の太鼓台が繰り出し、同神社のかがり火を紅提灯に移す。夜空を赤々と焦がしながら移動する3000もの提灯は、見物客まで熱くする。
「二本松の菊人形」は、毎年紅葉の時期に二本松城跡である「霞ヶ城公園」を会場に、約1カ月半にわたり開催される。約3万株の菊が咲き誇り、菊で飾られた人形体数は国内最大規模である。昭和30(1955)年から始まり、昨年11月で64回目の開催となった。菊は古来より高貴な花として人々に愛されてきたことから愛好家も多く、昭和時代には菊人形がまちに飾られていた。その伝統が現在も続き、“二本松の菊人形”は、日本三大菊人形の一つといわれる。ちなみに、菊人形に地名が付くのは、今では、ここ二本松と武生(福井県越前市)の2カ所となっている。
エビスサーキットは、ドリフト走行を求めて国内外から多くのレーサーが訪れる自動車レース場で、“ドリフトのメッカ(聖地)”だ。ドリフトとは、自動車や二輪車における走行方法の一つであり、タイヤを横滑りさせながらカーブを曲がるテクニックのこと。福島県から世界に広まったグローバルスポーツとして、近年は外国人の人気が高い。彼らは来日後、車を購入し1~2週間滞在、同サーキットでドリフトを楽しむ。まさにコト体験の観光資源といえる。
また同所では、市と連携して二本松の菓子と酒のブランド化と消費拡大を目指した事業を展開している。それが「にほんまつ菓子博」と「二本松酒まつり」だ。
昨年初開催の「菓子博」には市内菓子店15店が出店。自慢の和菓子や洋菓子を販売し、約1000人が来場した。開店と同時に行列ができるほどの大盛況で、来場者から「有名な菓子を一遍に味わえて満足」「上生菓子づくり体験ができてよかった」と好評を得た。
2回目の開催となった「酒まつり」には、日本酒ファン約300人が集まり、おちょこ片手に同市が誇る4蔵元の地酒の飲み比べを楽しんだ。事前に「マイぐい呑みづくり」「手すき和紙のラベルづくり」などの関連企画が行われ、当日は自作の“ぐい呑み”で楽しむ人もいたほど。女性に人気の日本酒カクテルや果実酒も振る舞われた。
「昨年IWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)のSAKE部門で、当市の蔵元「奥の松酒造」の“あだたら吟醸”が世界一に輝きました。1月20日の「菓子博」と、2月16日の「酒まつり」で二本松のおいしいお菓子とお酒を味わってください」(山口会頭)
このような観光資源や各種イベントの開催などを核に、地域の振興や活性化を図り、さらなる観光誘客を目的とする「にほんまつDMO」が昨年10月、産声を上げた。初代理事長は山口会頭だ。
「このDMOは地域特化型です。稼ぐ力をつけるための戦略や事業の構築が地域振興の鍵となります。まずは、既存の観光関係団体と業務の調整・整理を行い、新たな戦略メニューの発掘、開発を行う予定にしています。まだ生まれたての組織ですが、独り立ちできるようにしっかりと取り組んでいきます。また、本年は4月に当市で“全国さくらシンポジウム”が開催されますし、当所も創立50周年を迎えます。創ろう未来・つなぐ地域の底力!をキャッチフレーズに頑張ります」と、山口会頭は将来を見据えて意気込みを語った。
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