書名隠して30万部超販売
『文庫X』をご存知だろうか。昨年7月、岩手県盛岡市の一書店が、ある文庫本の表紙にカバーを掛け、書名と著者名を隠して販売した企画である。
売り場の一部でスタートした小さな試みだったが、購入客が続出、4カ月半の販売期間で5034冊を売り上げた。ピーク時には1日に206冊、1カ月で1713冊と、一書店では考えられない販売実績を記録。さらに、この企画は全国の書店にも波及し、650以上の書店で『文庫X』現象が巻き起こり、結果30万部を超えるベストセラーとなった。
「企画」と書いたが、商品を秘して売る「企画ありき」で行われた販促手法ではなかった。
「企画ありきで本を選んだのではなく、この本を多くの人に読んでもらうためにはどうしたらいいか考えた結果、中身を隠して売ることにしたのです」とは『文庫X』を企画した、さわや書店フェザン店の文庫担当の長江貴士さん。
『文庫X』以後、いろいろな店や企業が似たような企画を立てたが、それがお客の気持ちをつかんだというケースを知らない。モノを売るための販促ではなく、商品の価値を先入観なく伝えるための伝道『文庫X』の本質はそこにある。伝えたいという思いと商品あってこその企画なのである。
『文庫X』現象の現場を取材すべく、盛岡を訪れた。JR盛岡駅ビル内に店を構える同店は、いつも地元客と観光客でにぎわう繁盛店。全国各地で見慣れた〝駅ナカの本屋〟というイメージを超越した、本と情報、そして人が集う〝知〟のテーマパークだった。
「一人の書店員が出合える本には限りがあります。すべての本に平等に情熱を注ぐことは不可能です。だからこそ、本屋の数だけ、書店員の数だけ、違う売り場があるのだと思います」
こう語るのは、田口幹人店長。さわや書店は盛岡市を拠点に書店10店、雑貨店など2店を展開、フェザン店はその一番店だ。『文庫X』現象の震源地として名をはせたが、同店は出版業界では以前から「ベストセラー製造工場」「北の仕掛け人」として知られる存在だ。
誰のための品ぞろえか
「横にある本が違うだけで、一冊の本は違う顔を持ちます。その違いは、書店員の蓄積とアンテナの高さから生み出されます。本屋は、本を棚に並べて終わりではなく、読者であるお客さまの手元に、本が届いて初めて完結します」と田口店長。
確かに、同店の「売り場」は異形だ。店頭入り口付近の一丁目一番地には、普通の店なら全国共通の売れ筋や新刊が面陳列されるところだが、同店では「岩手の魅力再発見してみませんか?」というパネルを従え、地元関連・郷土本が並んでいる。さらに、「なぜ今この本を陳列するのか」と主張するPOPが添えられている。
こうした〝熱さ〟は売り場全体に及ぶ。各コーナーそれぞれがPOPを媒体に激しく主張し、そこに並べられる本は他店では目に留まらないものばかり。たとえ同じ本でも、冗舌なPOPが添えられていると、ここだけの特別な一冊に感じられる。
「忘れてはいけないのは、独りよがりにならないこと。自分たちの満足のためにやるのではありません。あくまでもお客さまのため。従って、『この本をお勧めするのは本当に今なのか』を理解していなければならない。もっと言えば、店にやってくるお客さまのことを、きちんと分かっていないといけないのです」(田口店長)
つい個性豊かなPOPに目を奪われがちだが、同店の真価は「この本をあのお客さまに出合わせたい」という熱意ある品ぞろえであり、長江さんのような商品の価値を的確に伝えようと試行錯誤をいとわないスタッフにある。『文庫X』はそうした土壌から生まれた可憐な花の一つなのである。
(笹井清範・『商業界』編集長)
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